平成23年4月号

4月号目次

・東日本大震災ボランティア報告!
・今月の事業所便り
・名倉院長の健康豆知識
・文芸
・行事予定
・投稿コラム
・編集後記

東日本大震災ボランティア報告!

皆さんもご存知の通り、三月十一日に東北、関東を中心に未曾有の大地震が発生しました。当施設では院長先生の指示のもと男性職員が、県に申請し救援に向かいました。

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三月二十二日に院長先生と職員二名で東日本大震災で被災された地域に救援物資を届けてきました。東北自動車道で福島県に入ると、いたるところで道路が隆起したり、陥没しているところがあり、改めて地震の大きさを体で感じました。まず向かったのが、福島県いわき市にある介護老人保健施設です。ここは原発から三十キロ以上離れており、屋内退避圏外の場所ですが政府による風評被害で救援物資が届かない場所でもあります。私達はそういった現状をニュースで知り、同じ介護施設ということでオムツ類を三~四十袋ほど届けました。

現地の職員の方によると原発から三十キロ圏外ですが、いわき市という名前だけで救援物資が届かない、ガソリンスタンドが営業を停止しているから物資の調達にも行くことが出来ないと頭を悩ませている様子でした。
「私たちにできることがあれば、いつでも力になります。」と伝え、いわき市を後にし、宮城県名取市に向かいました。
名取市ではタオル類など生活必需品を届けました。ここでも皆さん口々に、地震発生から約十日経った今も、ライフラインがストップしており、物資が届くところと届かないところがあるとおっしゃっていました。
テレビなどでご覧になった方もいると思いますが、名取市は仙台空港があり、空港にも津波が押し寄せ壊滅的な被害を受けた場所です。
名取市街は建物の倒壊などの被害はあまり見られなかったのですが、市街から空港に近づくにつれ風景が変わり、建物は跡形もなく流され、瓦礫や大木、空港付近や空港の駐車場に止めてあったと思われる車が悲惨な状態になっており、同じ日本とは思えず、SF映画の世界のようで現実を受け入れることが出来ず、ただただ立ち尽くしてしまいました。
こんな悲惨な状態が岩手県・宮城県・福島県の沿岸部に続いていると思うと、地震の大きさ、津波の恐ろしさをすごく感じました。こういう時だからこそ日本がひとつになって立ち向かっていく必要があると思います。
東北地方や被災者の方々が一日でも早く、もとの元気な姿になれるよう心から願っています。

療養棟  石川 聖

 

頑張ろう東北!!!負けるな東北!!!

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東日本大震災要援護者に関する支援に参加して

ゆめさき 石関 和行

三月十一日に起きた東北地方太平洋沖を中心とする大地震、私の人生の中で一番大きく長い地震でした。テレビやラジオでは、連日連夜、被災地の報道が続けられる中、群馬では他人事のように計画停電への心配やガソリンスタンドでの長蛇の列、食料の買い占めなど自分のことを優先する光景がいたるところでみられ、自分もその光景の中にいる一人でした。県からの派遣要請の意向調査に関しても、本当に行くのだろうかと半信半疑でした。実際、三月二十五日から四月二日までの派遣が決定したのが二日前の二十三日夕方。家族でアンパンマンミュージアムに行った帰り途中、総務の水間さんから電話は入り、楽しかった夢の世界から一転、「被災地に行って何ができるのだろうか」「余震が続く中、無事に帰って来れるのだろうか」「職場は大丈夫なのだろうか」「家族には何て言えばいいのだろうか」など行くと返事はしたものの不安感や恐怖心、心配で頭の中はいっぱいでした。

今回、第一班目の派遣に対し、当法人では、創春館療養棟・淡島、朱咲・城田、ゆめさき・石関の三名が参加。二人とも面識があり、私にとって気心の知れたとても心強いメンバーでした。どこの被災地に向かうかも分からないバスの中でも、三人で他愛もない話に笑いながら過ごしていましたが、宮城県庁に着き、宮城県庁職員から支援先等の説明、グループ毎に分かれての自己紹介の後、再度、気仙沼に向かうバスに乗った時の不安感は何ともいえない感じでした。

気仙沼市の福祉事務所でバスから乗用車に乗り換え、停電のため外の被害状況も分からないまま、支援先である気仙沼市立鹿折中学校体育館に着いたのが夜の十時過ぎ。既に消灯時間の過ぎた体育館内に四百人近い避難住民が、所狭しと寝ている異様な光景に、初めて被災地に着いたという実感が湧きました。私達は要援助者への支援が主な目的でしたが、介護の必要な方の多くは既に病院等に移ってしまっていたため、食事の配給、全国から届く救援物資の搬入・仕分け、下着やカイロなど日用品の配布、トイレや体育館内の掃除、住民への対応・声掛け、数名のトイレ誘導、医師・看護師による処置の補助、朝の体操が主な支援内容となりました。到着した翌朝、小高い丘の上にある中学校から眺めた下界の悲惨な光景や避難住民の方から当日の津波や火事から着の身着のまま逃げてきたという話を聞き、涙がとまりませんでした。そんな中でも、「遠い群馬から良く来てくれたね」と感謝やねぎらいの言葉をくださった住民の方々の、やさしい笑顔は忘れることができません。市の職員からお願いされた仕事だけをこなすのではなく、この人達に自分達は何ができるのか、自問自答しながら数日を過ごす中、一日中体育館内で携帯やゲームをしている子供たちと交流を持ちたいと、手の空いた時間に外で遊ぼうと誘ってみました。最初は警戒したり、嫌々参加する子供もいましたが、ドッヂボールなどをしながら徐々に打ち解け、最後には、親と子ぐらい離れている子供達と、友達のように親しくなることができました。やはり子供達の笑い声や笑顔は、周りを明るくし勇気と元気を与えてくれます。その点では、被災地の暗い雰囲気を少し明るく元気にすることができたかと思います。今回、現地での支援は実質一週間と短い期間でしたが、日々当たり前のように使用している電気や水道、ガスの使えない不便さを肌で感じることができました。私達は帰る日が決まっていて、それまでの我慢で済みますが、気仙沼の被害は大きく、電気・水道と壊滅状態で、いつ復興できるのか、いつまで避難所生活が続くのか見通しがつかない状況です。私達は今回の支援で終わりにすることなく、気仙沼の被災地での経験を多くの人に話し、今自分達ができる支援を継続する使命があると考えています。今何が大変で、何が足りないのか話を聞きながら被災地への支援を継続していきたいと思いますので、その際は、皆様のご協力をお願いしたいと思います。

気仙沼への派遣中、現地では雪が降ったりとまだ寒い日が続きましたが、その中でも紅梅が少しずつ芽吹き始め、もうそこまで春を感じられる季節となっていました。これからも被災地の一日も早い復興と被災者の方々の心に春が訪れることを願ってやみません。

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今月の事業所便り

涼風の家

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冬の長いトンネルからようやく抜け出し、涼風の家にも時より柔らかい春の日差しを感じる季節となりました。
利用者様が窓の外に見える公園を指差し「あそこに行きたいね~」と言う声が聞こえてきたので、「じゃ~みんなで行きましょうか~」と早々に準備をし、おやつを持って散歩に行きました。何段もある階段を上り、長いすべり台にたどり着き両手を上げて滑ってくる姿は、まるで童心のように楽しまれていました。
公園で遊んでいる小さな子供さん達にも笑みをうかべ、日頃見ることのない表情がうかがえました。こんなに楽しんで頂けるなら、「利用者のみなさん、また行きましょうね~」

 

GHゆめさき

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GHゆめさきでは3月3日にひな祭りを行いました。当日に向け手作りのひな段を作り、当日は女性陣が中心となり皆で太巻き作りをしました。皆様慣れた手つきであっという間に巻かれ、職員が飾り巻きにも挑戦しましたが・・・。見た目は愛嬌と言う事で・・・。
皆でお昼に美味しく頂きました。おやつには歌を唄い雛あられを食べ、お祝いしました。
当日にひな段を片づけないと嫁に行き遅れるという事ですが、ゆめさきではかわいいお雛様が3日を過ぎても皆様を見守っておられました。

 

デイサービスわきあいあい

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わきあいあいでは三月三日にひな祭パーティを行いました。利用者様と一緒に紙粘土でお内裏様とお雛様を作って絵具を使って一人一人、顔を仕上げていただきました。恐そうなお内裏様もいれば笑顔の素敵なお姫様もいて個性豊かな顔立ちになりました。雛祭りパーティーは五目ちらし寿司と手作りのさくら餅を作りおやつに皆でいただきました。手作りのさくら餅がとても美味しく出来あがり皆さん「あっ」という間に召し上がられていました。

 

GHしらさぎ

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GHしらさぎでは、三日にひな祭りをお祝いしました。女性の利用者様は、皆さんお化粧をして写真撮影をされ、おすましをして撮る顔がとてもかわいらしくうれしそうでした。昼食には、祝い膳を召し上がっていただき、『おいしいね』と笑顔で嬉しそうにいただきました。その他、誕生会をし、手作りのバースデーケーキを食べ、皆でお祝いもしました。これからも、皆様に笑顔で楽しんでいただくよう計画していきたいと思います。

 

クリニック通所リハビリ

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クリニック通所リハビリでは、一日の最後におやつ前の時間を使い、毎日ミニレクを行っています。十五分程度実施し、担当は各職員が持ち回りで行っています。内容としては、月曜日と火曜日はその月の歌を決めて全員で唄っています。ちなみに三月の歌は、千昌夫の「北国の春」でした。そして、水曜日から土曜日までは各職員が考えたものを行います。話題のものを調べて発表したり、クイズや脳トレ、いろいろなランキングを当ててもらったり、ビンゴやくじ引きも行っています。利用者様からは、「楽しかった」や「ためになった」という声が聞かれ好評です。これからも短い時間ではありますが、楽しいひと時を過ごしてもらえる様に工夫していきたいと思います。

 

あかしあの里Ⅲ

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三月十五日に、誕生会を行いました。今年九十二歳をむかえ、ますますお元気ですごしていただけるように、皆さんからお祝いの言葉と歌をプレゼントされご本人も大満足されたようです。大きなケーキのロウソクもひと息に吹き消され、「ありがとうございます。また今年一年がんばります。」力強い言葉で締めくくってくださいました。

 

星辰の家

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星辰の三月の誕生日会は、五名の方々と「不二家レストラン」でお祝いをしてきました。ケーキがたくさん並ぶガラスケースの前で「どれにしようか?」「わぁーあれがおいしそう。」「やっぱりイチゴだよ。」と話しながらケーキを選びました。お祝いの品は、ご本人の顔写真入りのお内裏様やお雛様を貼った色紙にしました。不二家店内では、ハッピーバースデイの曲が流れ、他のお客様にも拍手をもらい、ペコちゃん人形はテーブル上で踊り、視、聴、臭、味、触の五感でお祝いを感じとれて頂けたと思います。

 

あかしあの里Ⅰ 雛より団子!?

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あかしあの里Ⅰでは、三月三日の雛祭りに、手作りの巻き寿司を作ってお昼に召し上がって頂きました。普段はあまり食欲のない方も、酢飯のせいか全部召し上がっていただきました。おやつには季節感を味わって頂こうと桜餅を用意してお出しすると、「いい香りだね、春がきたみたい」等とお話しされたり、「食べるのが勿体ない」と、言いながらも一口で食べてしまわれた人もいました。少しづつですが春の気配も感じられ、季節ごとの美味しい物を召し上がっていただく事が出来、良い雛祭りになったと思います。

 

あかしあの里Ⅱ ひな祭り

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三月三日、ひな祭りをおこないました。あらかじめ作成していた雛人形の書き割りに顔をだし写真撮影を行いました。どんな姿で写っているかデジカメの写真を見て笑う人、喜ぶ人、がっかりする人様々でした。ひな祭りの歌を皆で唄い昼食に散らし寿司で女の子ならぬ女性の節句をお祝いしました。季節の行事をする事で、季節感を味わって頂き、良き思い出を振り返って頂ければと思います。これからも季節を感じていただける楽しいイベントを考えて行きたいと思います。

 

療養棟二階 誕生日会

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療養棟二階では三十日にお誕生日会を行いました。誕生日者の六名の方が前に並び、メッセージカードのプレゼントと院長先生からのお祝いの言葉を頂きました。誕生日者のご家族様もたくさんお見えになり、お祝いの言葉に涙する誕生日者もいました。その後はスタッフによる競技大会が行われ、前転や側転など得意技を披露しました。利用者からは「がんばれー」と応援がありスタッフも頑張る事が出来ました。最後に、利用者・スタッフ全員で「北国の春」の曲にあわせて音楽体操を行い、心と体をリフレッシュし誕生日会は終了となりました。

 

療養棟三階 ひし餅じゃなくてひし寿司

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三月三日、療養棟三階にて、ひな祭りのイベントとしまして「ひし型ケーキ寿司作り」を行いました。牛乳パックを型枠に利用して、職員と利用者様とで三色の酢飯で押し寿司を作り、おやつとして召し上がって頂きました。作り始めは、利用者様個々に押し寿司を作られていましたが、徐々に利用者様同士で声を掛け合い、協力しながら楽しそうに作る姿が見られ、喜んで頂けたようでした。利用者様、職員共に楽しい時間が過ごせました。

 

明月 ひな祭り

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三月三日より、DS・GH合同のひなまつりを行いました。午前では、利用者様一人一人手作りお雛様を作られて個性豊かなお雛様が、出来上がりました。昼食は、職員の手作りちらし寿司で普段食の細い方も「美味しかったよ。」と完食されている姿も見られ、「食べすぎちゃった。」と笑いながらおしゃる場面もありました。おやつでは、甘~い甘酒を召し上がっていただき、皆様楽しまれていました。

 

デイサービスゆめさき ひな祭り

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三月三日におひな祭りという事で、折り紙にてお内裏様とお雛様を作りました。最初は皆さん手こずりましたがさすが木曜日の利用者の方々で慣れてくると早いもので、二作目はアッという間に完成してしまいました。その後ミニカップ寿司を作り皆様の若い頃の思い出やお雛様の事などお話されながら楽しまれていました。

 

ケアセンター朱咲 楽しく美味しいひな祭り

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ケアセンター朱咲では、三月三日に小規模・グループホーム合同で“ひな祭り”を行ないました。女性の利用者様はメイクアップをして、いつもにも増して美しくなり、久しぶりのメイクにとても喜んでおられました。全員で、ひな祭りの歌を唄い、一緒に買い物に行き準備をお手伝いして下さった利用者様にお菓子バイキングの紹介をして頂きました。皆様に好きなお菓子を選んで頂き美味しそうに召し上がっておられました。その後、手作りのお内裏様とお雛様になって記念撮影いたしました。皆様とても楽しそうでとても喜んで頂き楽しい一日を過ごせました。

恩田 壽雄様 百寿お祝い

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さる三月二十六日に、ケアセンター朱咲に通われている恩田壽雄様の百寿のお祝いを開催しました。恩田様はお酒が大好きなので、ビール(ノンアルコール)を用意し、乾杯をしました。また、職員・他利用者様 全員で作った桃色の「ちゃんちゃんこ」と「頭巾」を身にまとい、手作りのくす玉を割って頂きました。とても喜ばれ、それと同時に歓声と拍手が自然とわき、一番盛り上がる場面でした。ご本人へのインタビューで、長生きの秘訣を伺うと「よく食べ、よく寝て、よく働く事だ」と、お答え下さいました。他利用者様からは「是非あやかりたい」との声が沢山聞かれました。歓談の際、ご本人様より息子様や他利用者様に、おしゃくされる等の心配りが見られ、職員一同 見習わなければ・・・と、思わされる瞬間でした。また、カラオケも皆様とご一緒に唄われ楽しまれておりました。百歳になっても、元気に歩いて通われる恩田様は、皆様の目標になっていると思います。今後、益々お元気に過ごされますようお祈り致します。

恩田 壽雄様  百歳バンザイ!!!

 

通所リハビリ  ひ な 祭 り

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今年の通所リハビリのひな祭りは、男性職員が変装したお内裏様とお雛様の登場に始まりました。努力の甲斐ありインパクトの強いりっぱな姿に利用者様はびっくり、一瞬息をのみ、その後大きな拍手がおこりました。ひな祭りの思い出話では、懐かしそうに話をして下さる利用者様が多く、お雛様の髪をとかし、着物を脱がせたら元に戻せなくなってしまったという職員の話に、またもや利用者様を驚かせてしまう場面もありました。その後お内裏様とお雛様をリーダーとし、二チームにわかれて輪投げ大会を行いました。力を合わせて戦いましたが、結果はお雛様チームの勝ち!!しかし、それに納得いかないお内裏様チームから、もの言いがつき、最後はチームリーダー同士の戦いで決着をつけることになりました。じゃんけんに勝ったらピコピコハンマーで叩く、負けたら素早くお鍋で身を隠す、隠しそびれて叩かれたら負けてしまうゲームに手加減なしで挑戦したのです。結果は逆転!!戦いに疲れたお内裏様とお雛様の心はバラバラです。利用者様の声援に追され婚姻届にサインをし、仲直りをしてめでたくひな祭りを終えました。「今日は楽しいひな祭り~♪」の曲通りの一日となりました。

 

院長先生の健康豆知識

福島第一原発と放射線障害

東日本大震災による福島第一原発の事故は、なんとも不愉快でやりきれない事故ですね。決して起きてはいけない事故であったし、放射能という事で近隣の農家や漁業の人達が理不尽な苦しい状態に追い込まれている姿には胸が痛みます。放射線の実態と人体への影響というのを冷静に考えれば、今回の汚染については、マスコミが騒ぎすぎです。

放射性物質による汚染という点では、アメリカ、フランス、ソ連、中国、インド等の数えきれない程の核実験の方が、何倍、何百倍も問題にされるべきだと思いますが、日本のように、お人好しで、民主主義で、自虐的でもない、独裁国家やズル賢い国々は、自分達に都合が悪いデータは決して公表しません。中国、ロシアなどが汚染水を垂れ流すなと非難していますが、「盗人猛々しい」とはこの事で、彼らに自分達の核実験後の周辺のデータを開示しろと脅しをかけてやればいいのです、また韓国では、放射性物質が心配との事で、雨の日、休校する学校が相次いだとの事ですが、失礼な話で、よっぽど中国から沢山降り積もる、放射性物質の混じった黄砂の方が心配だと教えてあげたい気分です。今まで沢山の核実験でまき散らされてきた大量の放射性物質を考えるなら、今回の汚染など何程の事があろうと開き直らなければ、散々汚染物質の蓄積した現在の地球は住めたものじゃありません。放射線の人体への影響という点では、医者が前面に出て、その安全性について説明する義務がありますし、説明するに最も適した立場です。医者は胸部レントゲン、各種癌検診、CT検査、また治療として放射線やアイソトープ等多数の放射性物質を使い、人体に沢山の放射線を浴びせてきた存在です。決して福島の放射線が悪玉で医療のそれは善玉という、放射線に区別がある訳ではありません。

放射線による人体への影響を考えるのに「シーベルト」という単位が使われますが、一般に一年間に私達が浴びる放射線量は、二・四ミリシーベルトと言われています。そして一回のCTスキャンで浴びる放射線量は約十ミリシーベルト前後になります。治療的検査として年間四・五回CT検査を受けたり、放射性物質を注射して検査する人がざらにいる現在の医療の現状では、医者が放射線の安全性を確信していると考えなければ納得できない現実です。そしてまた、現在の医療現場では、放射線を浴びせなければ医療が成り立ちません。大抵の医者は、放射線障害は主にDNAやRNAなどの染色体の複製時に発生する事を知っており、その為、細胞分裂の盛んな胎児や乳幼児への影響を懸念しますが、大人の場合少々の染色体への障害は自分の身体が修復してくれるし、体内に入った放射性物質はいずれ代謝により排泄されると高をくくっているのです。実際のところ、放射線障害の大部分は、この細胞の複製(生まれ変わり)への影響にあり、脳梗塞や心筋梗塞のように、細胞そのものが死ぬような状況は、大量の放射線が何らかの防護もなく放射されるような事故、(千ミリシーベルト以上)以外ではほとんど起こりません、広島、長崎の原爆においてもほとんどの人が原爆による熱風や爆風にやられたのです。

ここで人体の中で複製する(生まれ変わり)細胞を考えてみましょう。毛髪、口から肛門へと至る消化管の粘膜、皮膚、肝臓、血液細胞、精子などが思い浮かびます。そして話は、第五福竜丸へと移ります。一九五四年米国は太平洋ビキニ環礁で熱核爆弾の実験を行い、第五福竜丸は、その実験により吹き飛ばされた放射能をもつ大量の白い灰を浴びる事になります。この灰には、現在福島の事故で問題となっているヨウ素やセシウムなどの放射性物質も多分現在の数千倍のレベルで含まれていました。したがって乗組員達は現在考えうる最悪の被爆例を呈示する事となります。思い出して下さい、生まれかわる細胞を、最初の数日間に九十%の乗組員が嘔吐や下痢などの症状(消化管)を訴え、皮が黒化し、一部潰瘍ができました。十三日目に頭髪が抜け、二八日後には、貧血(赤血球)、出血症状(血小板)があらわれました。二〇数名の乗組員の内、一人が肝障害で死亡(輸血による血清肝炎が原因と言われています。)その他、一~二ケ月後こうした症状を乗り越えた乗組員は元通りの生活に戻り、後にも原爆による特別の障害を発症しなかったようです。福竜丸の事故は、大量の放射性物質の灰を浴び、吸い込むという最悪の事態でも細胞の死は、いわば新しく生まれ出てくる細胞の死であり、もととなる親の細胞が死ぬ訳ではなく、一~二カ月もすれば再び細胞の生産を開始するという事を示しています。脳や、心臓、腎臓、肺などの生まれ変わらない細胞は死にません。放射性物質の長期の被爆による癌の発症なども心配されていますが、私達の身体には、ガン化した細胞を取り除く仕組みも備わっており、それ程心配する問題でもありません。

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放射線障害については、広島、長崎の原爆、第五福竜丸の事故、チェルノブイリ原発事故、JCO事故等から知識が集約され、ほぼ実体が明らかになっています。

普通に生活している人にとって放射線障害は、万一あったとしても死ぬ病気じゃありませんし、特殊な状況で発症する甲状腺ガンや白血病を除き、タバコや他の発癌物質と比べても、特別発癌性があるわけでもありません。少量の放射線がむしろ身体にいい効果をもたらし、ガンを抑制するという有名で実証的な報告もあります。ラドン温泉などではそうした例でしょう。しっかりした知識があればパニックに陥ったり、不安にかられる事もなく、群馬の野菜なども少々の放射能も何するものぞと安心して食べられるのですが、市場に出荷できずに廃棄してしまうのは、本当にもったいなく、残念だと感じているのです。

 

吾輩はジータである  ―そしてまた貴方に恋してる―

東郷 彦四郎

第三章 手紙

前章では一九四二年二月、十七歳のリンさんが、前橋市青柳町公民館で、町の婦人方と慰問袋を作る迄のところを話したんじゃが、今回はその袋を受け取った青年兵士との交流が始まる話じゃ。

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当時、各地で作られた慰問袋が、どういう経路で、どういういきさつで、日本各地の兵士達のところへ届いたのかよく分からんが、リンさんが沢山作った袋の中でも、唯一青柳大師の鈴を入れた袋は、遠く広島県は呉市にある連隊に届いたんじゃ。呉といえば、真向かいにある江田島兵学校が真っ先に頭に思い浮かぶが、届いたのは、兵学校ではなく、海から数キロ離れた山裾にある第六歩兵連隊じゃ。呉は本当にいい所じゃ、真ん前に江田島といくつかの島々が湾を囲むように広がり、ただでさえ波静かな海が、まるで湖のようじゃ。兵学校の水練にはもってこいという訳じゃ。雨、風が少なく、「赤城おろし」の時期でも冷たい微風が頬に感じる程度じゃ。陽光がさざ波の立つ海面にキラキラ輝き、湾内を取り囲むそこかしこの木々の緑が春を感じさせる。そんな季節三月、リンさんが袋を作って約一カ月後に袋は兵舎に届いた。

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とある兵舎の一室、カーキ色の制服に身を包んだ兵士たちの一団が、続々と入ってくる。上官の「整列!」という掛け声を合図に、百人程の兵士が整然とあっという間に整列を完了する。兵士達の前の机の上には沢山の慰問袋と皿に盛られた潮が置かれてある。小太りでいかにも滑らかに口が動かない風だが、人柄は良さそうな上等兵(療養棟 I垣君だ!)「えー、本日慰問袋を支給する。えー、これはみんなの、えー武運長久を祈ってえ、日本各地のご婦人が、えー作ってくれたものである。そうだからして、えーこの袋に、えー、どんな思いが込っているか考えて欲しい。そして、えー、袋の中に作った人の名前と住所が確認できるなら、えー、簡単でいい礼状を書いて欲しい、これから順に名前を呼ぶ、呼ばれたら前に来るように。」順番に名前が呼びあげられ、サッ、サッと塩で清められた袋が手渡される。全員配り終わったところで「解散!」の言葉とともに上官いくらか顔を上気させながら部屋を立ち去る。あちこちで喚声のかたまりが爆発し、兵士達一斉に袋の紐をほどき、雑談の合唱となる。

「オイ、AWA島何を匂い嗅いでいるんだ。(療養棟AWA島君だ!」

「先輩この袋たまらなくいい匂いがするんです。もういきり立つ気持ちが大変です。」

「ワハハ、さすが暴れ馬と言われる程の事はあるな。オレのなんかいくらか線香くさいぞ。」等々、袋の中身を確認しながら、様々な会話が交わされる。

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ここで物語の主人公の一人、十九才の兵士真一登場、静かに一生懸命袋の中に入っていた手紙を読んでいる真一の表情がクローズアップされる。

「この袋は私が作りました。御無事で帰られますよう、心を込めて作りました。中に入っている鈴は、近くの青柳大師様のお守りです。目の前でチリンチリンと鳴らすと、その音に驚いて悪魔が退散すると言われています。私の名前もそんないきさつから、祖父が名付けたと聞いた覚えがあります。どうか弾に当たらず御無事で帰れますよう、一生懸命鳴らして下さいね、お願いします。 昭和十八年二月三日  ○○ りん」

手紙から目を離し、中の鈴を取り出しながら、耳元で鈴を振る真一、そんな真一の瞳が次第に潤み、あふれ落ちようとする涙を抑えるかのように、窓から見える海をじっと眺めている真一じゃった。手紙には住所と名前が書いてあったもんじゃで、真一は翌日リンさんに礼状を書いた。

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「突然のお便りに驚かされた事でしょう、私は呉市に駐屯する第六歩兵連隊に所属する○○真一と言います。昨日貴方様からの慰問袋を受け取りました。年令は十九、出身地は山口県であります。あなたの思いやりあふれるお手紙に感激いたしました。しかし、私はこの戦では皇国臣民の一員として見事散る覚悟です。未練があってはいけませんので、お気持ちは有難く頂戴し、鈴はお返しします。しかし、大変不躾なお願いとなりますが、もし貴方様が独り身で、好きな人もいないようなら、写真などお送りいただければ、有り難く死んでいけそうな気がします。」

思いもかけない所から、思いもかけない手紙を受け取ってリンさんは、とまどい悲しい気持ちをどう処理していいか分からない状態じゃった。

「これはおばさんに紹介された市内の写真館で撮った写真です。とても恥ずかしいですが、お送りします。私は今年十七になりました。どうか本当にお願いですから死ぬなどとおっしゃらないで下さい。ここ前橋でも最近ひっそりと遺骨となって帰ってくる兵隊さんが多くなりましたが、御両親様や奥様方みんなおもてでは平気なふりをしていますが、陰では泣いてばかりの生活です。げっそりとやつれて死にそうな家族の方もいます。遠く離れた戦の為、リンには事情がどうなっているのかよく分かりませんが、とにかくどの兵隊さんもご無事でご家族のもとへ帰られるのを祈る日々でございます。くれぐれものお願いです。どうか、この鈴を受け取り、散るなどとおっしゃらないで下さい。」

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こうした手紙のやり取りが数回続き、真一からリンさんに会いたいとの手紙が届くことになるんじゃが、その話は次の章「初デート」のお楽しみじゃ。ジータの可愛い孫達よ、東日本大震災は戦争と同じじゃ。そしてリンさんや真一達の青春は廻りくる震災の予眺におびえながら過ごした日々じゃった。予眺を感じる事もなく散る事になった数多くの人達に哀悼の意を共に捧げよう。そして再び立ち上がる人間の崇高な精神を見つめる事としよう。愛を信じてゆっくりお休み。ジータはいつも君達をみつめてる。

 

文芸作品

・長電話 孫も年頃 気になりて

・金利減り 嘆く老後の 長寿園

・若人が 競い合う夢の 甲子園

・アメリカへ 渡り日本で コマーシャル

・五月雨を 寥しく眺め 麻の中

・夏盛り 響く祭りの 笛太鼓

・夢に見た 初の出番の 甲子園

・連日の 事件素知らぬ 桜咲く

池嶋 宏輔様

 

・朝やけや 明るさ増して 日が昇る

・きさらぎの 深山を白く 染めにけり

星野 武治様

 

・山々の 木々の青さも 春めいて
     しだれ梅の花 風にゆれいる

・新しき 年に向かいて どう生きる
     希望ある日々 あれと祈れり

・震える手 いとしく思う しみじみと
     わが生活を かえり見ており

能勢 三千子様

 

・ハーモニカ 三曲吹けば 息気みだれ
     老の十八番は 三枝子の歌を

・鶯の おさなき声を 聞にけり
     妻の誕生日 雪柳咲く

影山 えいじ様

・梅にうぐいす 上らせて
     ホーホケキョと 鳴かせたや

新井 和夫様

 

今月の行事予定

☆あかしあの里Ⅰ☆
中旬 お花見ドライブ(二回)
下旬 外食予定

 

☆DSゆめさき☆
 7日 ブッチーライブ
 8日~14日 お花見ドライブ
23日 お誕生日会
28日~30日 映画上映会

 

☆あかしあの里Ⅱ☆
日時未定 お花見
おやつ作り
歓送迎会

 

☆療養棟二階☆
27日 誕生日会

 

☆通所リハビリ☆
 5日 水野先生のハーモニカ教室
14日 フラサークル
16日 ふれあいコーラス
13、19、21日 誕生日会
※桜の開花・天候に合わせてお花見散歩を予定

 

☆GHゆめさき☆
 7日 花見
10日 家族会 外出
24日 誕生日会

 

☆GHしらさぎ☆
中旬 大室公園 花見
下旬 避難訓練

 

☆DS明月☆
DS・GH合同 お花見会
日時未定 誕生日会
おやつ作り
ドライブ

 

☆あかしあの里Ⅲ☆
 7日 お花見ドライブ
14日 お花見ドライブ
19日 手作りおやつ(みたらし団子)

 

☆星辰の家☆
11日~15日 お花見ドライブ
未定 誕生日会
下旬 沖縄ミニコンサート

 

☆DS明月☆
DS・GH合同 お花見会
日時未定 誕生日会
おやつ作り
ドライブ

 

☆朱咲の家☆
 9、14、23日 誕生日会
4月中随時 花見ドライブ

 

☆わきあいあい☆
 6日 誕生日会
15日 おやつ作り
19日 おやつ作り
25日 パンバイキング

 

☆DS明月☆
DS・GH合同 お花見会
日時未定 誕生日会
おやつ作り
ドライブ

 

☆朱咲の家☆
 9、14、23日 誕生日会
4月中随時 花見ドライブ

 

☆わきあいあい☆
 6日 誕生日会
15日 おやつ作り
19日 おやつ作り
25日 パンバイキング

 

☆GH明月☆
DS・GH合同 お花見会
日時未定  誕生日会
たこ焼きパーティー
ドライブ

 

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投稿コラム

「忠治人相書手配」

坂本正之助

天保八年の飢饉に三十六ケ村を救った忠治一家が赤城山に立て籠りの経緯を触れてなかったが、忠治が十七歳の時に島村の伊三郎の賭場で人を殺して以来、四年後にまたも島村の伊三郎殺しで関八州の手配人として追われる凶状持ちで、一時信州に逃げていたが、ほとぼりが冷めたのを良いことに本拠・国定村に戻って来たが、やはり忠治は関八州の手配人として追われる身となっていたので、子分の日光の円蔵、三木の文蔵、板割の浅太郎、清水の頑鉄、その外二十人程の子分を連れて、赤城山の隠れ家紫藤洞窟に立て籠ったのである。
そして飢饉が最悪の状況を呈した天保八年(一八三七年)の頃、赤城山中にお訪ね者の賊が隠れていると、それは忠治という博徒で数十人の子分を引き連れていると、昨年の冬以来たびたび山をおりては飢饉に苦しんでいる民百姓に米銭を与へて助けているという噂が代官所に入った。代官所が救助しなければならないのに、忠治という博徒が民百姓を救っているということで、本来なら民百姓の窮民を救うのは代官所にあるのに、忠治に先を取られたので慌てたのは関八州を預る取締役の代官羽倉外記であった。
外記は忠治の博徒の分際でありながら、窮身に手を差し伸べるとはもっての外だと、関東代官で羽倉に嫌味にもあたると憤慨して、これ迄よりも忠治への追求は厳しさを増した。そして忠治召し捕りの人相書が手配された。だが、その頃忠治は子分らと分散して生活圏が裕福な者、豪農商からの借り受けた資金と忠治が子分一人を連れて、現太田市呑龍大光院の蔵から盗み出した二阡両と、子分が借り集めた資金を合わせて三阡両を赤城村、黒保根村、宮城村、大胡、粕川村、佐波郡東村を含め三十六ケ村の住民の家族に各家庭の人数割で、あそこは五両ここは三両と分け、一夜の中に一軒一軒投げ込んだのである。指名手配中の忠治が赤城山を下りて飢饉を救い、お陰で飢饉を凌いだ村々は、なんとか平穏を取り戻したが、代官羽倉にしてみれば忠治その者については、たかが上州特有の博徒ぐらいの認識しかなかったのであろう。
一方幕府では豪農商に差出金を依存せざるを得なかったが、それも一部の理解しか得られず切羽詰った状況であった。この状況の中で忠治が劇盗を演じたのは、流石か忠治任侠劇としかいいようがない。
忠治後の経緯は後日のお楽しみに。

 

編集後記

このたびの東日本大震災により被害を受けられた皆さまに、心からお見舞申し上げます。四月号のさんぽみちはいかがでしたか。
地震後より関東地方を中心に計画停電が行われていますが、私が所属する部署でも計画停電でいくつかのイベントが中止になってしまい、皆さんにはご迷惑をかけてしまいました。今回の計画停電で、電気のありがたさや必要性、今まで当たり前にしてきたことがとても裕福で、恵まれた環境の中で生活していたということを感じました。
暖房も無く寒い中での避難所生活を送る方や、未だにライフラインが不通の中で生活を送っている方を思うと、三時間弱の停電で不満などを言っていられないと思いました。
私たちが出来る事は節電や募金などと限られていますが、被災地の方々には大きな希望になると思います。一日も早い復興を願いつつ、引き続き節電をしていきましょう。

広報委員 療養棟二階   石川 聖